多田智満子

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。

 

  

 

多田智満子(1930~2003)

    歌集 遊星の人(2005年刊) より

 

 

 

 

 

鈴懸


夏過ぎし大學街をあゆみゐて出會ひたる古書「へカーテと犬」


揺れやまぬ心もて眞夜讀みはじむ地底に垂れし「フーコーの振り子


學校へ行かぬ少年日もすがら山に向かひて笛吹きてゐる


脣に子音の泡をふかしつつ語りてやまぬアラブ青年


意味不明ながらたのしむさわさわと子音母音の波のたかまり


言ひそびれそびら向けたる夕まぐれはぐるる心かつ怖れつつ


號泣のごとく高まりふつつりといびき絶えにき人や死にたる


あくびしてなみだぬぐへばさしむかふ人もなみだをぬぐひてありけり
わが腦(なづき)輕石にさも似たるかな頭ゆすればからからと鳴る


身のあはひ風するすると拔けてゆく半身は海半身は山


ふところに猪の仔のむれ遊ばせて山はやさしく老いにけるかな

ロストロボーヴィチ
右手に弓高く揭げて彈き終えぬ霜月のチェロ無伴奏ソナタ

   在る厩舎風景
藁多き厩のあまきぬくもりに仔犬は眠る馬の足もと


人の子の降誕の夜もかくありし厩の藁に眠る犬の仔


花吹雪嬉嬉と戲るをさな兒の樂園の刻久しからし


星空を讀み解く術も知らずして老ゆか萬卷の書に圍まれて


佳きひとの偲び歌聽く夜の極み銀河あふれて星たぎり落つ

精靈飛蝗


ねころべば大かまきりの三角の顔はどこかで見たやうな顔


枯枝にひよどりは尾をふるはせて朱き實を欲り明き陽を欲り


吹き降りの嵐を聽きて眠りしにゆめのなかにて濡れそぼちにき


死者われの枕邊の花ことごとくしぼむとみえて覺めし短夜


飛魚は銀の尾ひれを煌めかせ老いたる海の皺を切り裂く


秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも


旅は夢はた夢の旅ゆられつつさめつねむりつ乘り繼いでゆく


母逝く
もはや世に映すものなき網膜をひろげて黄泉の闇に沈めむ


通夜の夜のやうやくしらむ窗ひとつ風の息吹きのこめかみを過ぐ


朝風にいま開けつ通夜の窗屍の上に夏立ちにけり


ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか


北風にまぎれ虛空を翔りつつ裏聲あげて歌ふ死者あり


罠に足とられてしかば白骨と化しつつ鹿は獵人を待つ


うつろ舟 


  渋沢竜彦葬儀 晩年の作に「うつろ舟」あり
ゆめならずうつつにもあらずこの岸をいま離(さか)りゆくうつろ舟はや


うつろ舟君造りしはかの岸へみづから乘りて去りゆかむため


くちなは


遠い樹は音叉の形ひびきくる風はlaの音 靑銅の春


くちなははむつかしきもの宵闇に卷きつほぐれつ靑光りして


筆勢も墨色もともにかすれたる父の筆跡枯蘆のごと


老殘の父病みて影うすくあれど太き眉毛は白きまま濃し


父もはや文字が讀めずと送り來ぬ漢詩數卷秋深むころ


晩く生まれいとほしまれしわれなれば遂に見ざりき若き父母


日蝕 昭和天皇危篤
遊牧の民は天馬を追いゆけり大草原に金環の蝕


生涯の涯のきりぎし間近きや耳鳴りに似る海鳴りのこゑ


落日を背負ひて立てるわが行手影ほそくながく倒れ伏したり


冬山の遠き木靈にのどそらせ臟腑枯らして吠ゆる犬あり


古き海(うみ)山に昇りて凝(こご)りしやアンモナイトは渦潮の形


夕ぐれは怖ろしきかなあはあはと頭上に花の雲垂れこむる


花冷えや毒人參を飲みくだしソクラテスは脚より冷えゆきしとぞ


うすき翅水平のままに蜻蛉(せいれい)は精靈なりき水面(みのも)掠めて


陸軍歩兵上等兵の木の墓標かたむきしまま氷雨に濡るる

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)


神の眼は眞靑(まさを)なるらむ大空の虛しく澄みて蒼きを見れば


一輪差しの首ほそくして豐頰の牡丹あやふく笑み崩れたる


身の九竅(きうけう)七つまで顔に集まれり げにおそろしきや目鼻耳口
                        ※九竅=九穴


ゆふしで


かざす掌に風は透けたりわが生涯(ひとよ)みるみるうすくめくれゆくかな


春の野に搖れゐし仔馬かげろふの消ゆるとともに跡かたもなし


木綿(ゆふ)四手(しで)をとりて願はむ葛城の一言主(ひとことぬし)に善言(よごと)一言


うたたねの神のごとくに横たはる雲を擔(にな)ひて春の大峯


神鷄は五彩の尾羽根もたげつつ神の死せるを知らざるごとし


木の梢(うれ)に若き樹液は昇りつめ正午みどりの血と溢れ出づ


春なれや鳴門の渦にわかめあらめみるめ身をよぢもだゆるけはひ


獅子座流星群 二〇〇一年十一月


見をさめと厚きガウンに身をつつみ流星の群れに遭ひに出でたり


草の府


戲(たは)れ女(め)を戲(たは)れ男(をとこ)にひきあはせあとは野となれ紅き酒汲む


草の府に住みならはして言の葉の繁れるを見き枯れゆくを見き
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ


イタリア


御子(みこ)はつねに御母(みはは)の胸に在(おは)するをなにとて聖母を神とは呼ばぬ


緑蔭


みどり濃きこの遊星に生まれきてなどひたすらに遊ばざらめや


神神は天動地動戸惑へるこの惑星に人生(う)みつけぬ


甕のふたしづかに閉ぢよ一對のふるへるまなこ泛べたるまま


如是我聞(われきけり) 岐れ道あれば突立ちて慟哭したる男ありきと


薔薇窗
波の下に波こそ八重にたたなはれこの世のほかに世はあらじとも


僧院は高き圍ひをめぐらして「薔薇の名前は薔薇に問ふべし」

 

心覚えに

      二〇〇二年秋、すでに遠くないこの世との別れを覚悟した多田智満子に託されたものが四つあ      った。
      遺句集『風のかたみ』(は)翌年一月二十五日・二十六日の通夜・葬儀参列者に配った。
      遺詩集『封を切ると』(は)一周忌に合わせて出版した。
そして、三つ目が、、すなはちこの『遊星の人』。
故人の表現は多岐にわたったが、貫くところは一つ、言葉による遊び、それも真剣な遊びだった。
託された四つ目、能楽詞章「乙女山姥」は観世流宗家・観世清和師によつて節づけされてをり、 上演の機会を待つばかりである、
                                 高橋睦郞 
多田智満子(1930生)初期の詩集『花火』より

フーガの技法
 ・・・・
 そのむかしふとはじめられたことが
 なぜこう果てもなく尾を曳くのか
 ・・・・
 問うものとこたえるものは
 交わらぬ高温と低温のように
 貞潔の距離をへだてて相対し
 生命の肉声を満たすものを探しもとめる
 ・・・・
 すでに傷ついた時はこの身を捉え
 かろうじて今まで生きてきたという
ゆるしがたい罪を罰するために
 使い古されたひとつの主題を
・・・・

黎明
  ・・・・
 海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
 沈み去った星座のあとを追って
 薔薇いろの帆船は沖に消える

カイロスの唄
 ・・・・
 わたしはひとつの速さである

 むしろひとつのずれてゆく距離である
 ・・・・
 足をはやめてわたしはすぎる
 万象のなかに
 悔恨だけをよび起こしながら
 けれども人は知らない
 幸運(カイロス)の名あるわたし自身が
 ひとつのはしりゆく悔恨であるのを


 昨日は今日に
 おそらく明日は今日に似て
 ・・・・
 鏡はいちはやく秋の気配にふるえる

挽歌

 魂よおまえの世界には
 二つしか色がない
 底のない空の青さと
 欲望を葬る新しい墓の白さと

疲れ
 ・・・・
 これという今がないので
 時間はみみずに似てくる

夜の雪
 冬ごもりの獣のように
 身をまるめ まなことじれば
 大屋根小屋根に雪がふりつむ
 かけているふとんのうえに雪がふりつむ
 まぶたのうえに雪がふりつむ

夜のうえに夜がふりつむ

嵐のあと
 ・・・・
 海はしずかにまどろんでいた
 難破したひとつの船を
 よみさしの祈祷書のようにむねにふせて

告別
 わたしの髪はのびすぎた

 お仕着せをきた言葉たちに
 望みどおり暇を出そう

わたし
 キャベツのようにたのしく
 わたしは地面に植わっている。
 着こんでいる言葉を
 ていねいに剥がしてゆくと
 わたしの不在が証明される。
 にもかかわらず根があることも・・・・。

晩夏
 ・・・・
 くちばしに
 黒い音ひとつくわえて
 最後の鳥は通りすぎた

 さらば夏よ
 去りゆく足をはやめよ 
 ──星はしずかに水に落ちる──

枯野
 こがらしがのたうちまわる。
 たれも住まない心には
 地平線というものがない。
 ・・・・
 飢えによろめく日輪をおしのけ
 きょうも歯を風にさらして枯野を行く。

ひとつのレンズ
 スピノーザ あなたはレンズを磨いていた
 胸を病みながらその日その日の糧のために
 そしてあなたは磨きあげた 一生かかって
 ひとつの絶対のレンズを 永遠の観照(テオリア)のため


葉が枯れて落ちるように
 葉が枯れて落ちるように
人は死ねないものか すぎてゆく季節のままに
 ・・・・
 蒼空に顔を映してわたしは立つ
 ・・・・
 生まれつきの微笑をうかべて
 ・・・・
 かつてわたしがさからったことがあるか
 かつてわたしの失ったものがあるか
 そしてかつてわたしが不幸だったことがあるか

 わたしの瞳に魚が沈む
 わたしはおもむろに悟りはじめる
 わたしがしあわせな白痴であることを
 ・・・・
わたしの肋骨の隙間に
 秋の風よ ふけ

『薔薇宇宙』エピローグ
 宇宙は一瞬のできごとだ
 すべての夢がそうであるように
 ・・・・
 わたしの骨は薔薇で飾られるだろう


 めまいして墜落しそうな深い井戸
 ・・・・
 あの蒼天から汲みなさい
 女よ
 あなたのかかえた土の甕を
 天の瑠璃で満たしなさい


遺作

陰影

 暗い森の 暗い象が
 沼にきて 水をのんだ
 仏陀はそれを見ておられた
 (暗い森の暗い象が
 沼にきて
 ふるえる月の幻をのんだ)

 暗い森の 暗い鹿が
 沼にきて 水をのんだ
 (鹿もまた月の幻をのんだ)
 仏陀は身をかがめて
 掌に月をすくいとられた
 (これをのんで
 いささか心があかるむのなら)

 ・・・・・・・・・・

 仏陀が亡くなって二千何百年
 仏舎利は無限に分割された
 三重 五重 七十――塔は空に向って
 堆高く虚数のいらかをかさねた

 いま明るい町の 明るい人
 夜を奪われたきみは
 どの沼にきて 水を汲む
 掌にどんな月の幻をすくう?
 (それをのんで
 いささか心に翳がさすなら)

          矢川澄子を悼み
   来む春は墓遊びせむ花の蔭
          半年後みずからへ?
   草の背を乗り継ぐ風の行方かな

            

  現代詩文庫を開いたら(いままで知らなくて良かった)と思う言葉が並んでいた。
 福岡県出身。
 ユルスナールハドリアヌス帝の回想』を読んだ三島由紀夫は「訳者の多田智満子って、あれは、ほんとは男なんだろ」と言ったという。